2025年テーマ『脱皮』Ⅱ
代表を引き継いだのは2002年の入社から9年目。先代もそのつもりで色々と厳しくしてくれたものです。その後、会長職となった先代、一年間そばにいてもらい、見事きれいさっぱり引退したのです。自らが決断をする一番難しいとされる引き際をあっさりやってのけた彼は流石の一言。彼が73歳、私が36歳の年でした。
ここで父の紹介を少ししておきたい。彼は、かの砂風呂で有名な鹿児島県揖宿郡山川町の出身でラサール高校を卒業している。7人兄弟(だったと記憶している)の下から2番目で、幼少期に病院の家元に養子に出され大変苦労したと聞いている。医者になるのが嫌で、結局その家を出て4年間住み込みなどで働いたお金で大学へ。後々、その4年間を取り戻すのに苦労の連続だったという。元来読書好きの彼は、若かれし頃は小説化を目指そうとしていたとか。どういう馴れ初めかは曖昧だが、同じ小学校を出ている幼馴染と結婚、数字にも強かったことから経理マンをして生計を立てていたという。
家を買おうということになり、読書好きな彼は、不動産に関する本を読みまくり、遂には現在の宅地建物取引士の資格を取得。いうなれば不動産のプロだが、なんと営業マンに騙されて再建築不可の家を購入した。その時、悔しがるどころか営業の面白さに目覚めたといい、経理マンから営業マンへの転身を遂げることとなった。
現在も営業を続ける浦和の老舗不動産業者『尾張屋』さんに入社、3年間修業の後に独立した。いつも営業成績はトップだったと母からも聞いている。今から40年以上前、窓ガラスに図面を一杯張って中を見えなくしている町の不動産屋さん。来た客を逃さない暗いイメージだった不動産会社だ。彼はデパートの様に誰でも気軽に立ち寄って、何も買わなくとも『ありがとうございました』と気持ちよく送り出せる、そんな会社にしたい、と当時では珍しかったカタカナを用い、埼京線の開通時期にちなんで『埼京ホーム』と命名したのだ。
創業時は売買仲介を専門にした不動産業者であったが、歩合制をとっていたため社員には顧客を預け、自らは新規開拓営業をしていった。飛び込み営業だ。営業の本を何度も読み勉強し文字通り『販売は断られた時からはじまる』の著書レターマンの如く営業を試みて顧客を獲得していたった。まだ田畑が多く残っていたこの地域に於いて、看板を立てさせてもらい、物件を預からせてもらったり、紹介させてもらったりと少しずつお客様を獲得できるようになっていった。奇しくも日本中が沸いたバブル期を経験し波に乗ったということも大きい。それでも大きな買い物には手を出さなかったことも、手堅く今まで営業を続けて来られた一因でもあると思われる。
この会社に来た時、朝まともに掃除する習慣はなかったし、ちゃんとした就業規則も会社方針も経営計画書もなかったし、今では考えられないが社会保険にも入ってなかったし、ホームページも無かった。少しづつ改善してきて今がある。朝8時から夜11時過ぎまで働ていたし、連休は月に一度だけだった(定休日は木曜日であった)。本当に少しずつ改善してきて今がある。夜9時に帰ることが出来るようになった時には妻と二人で乾杯したし、日曜日に大河ドラマを見られるようになる頃には感激すら覚えたものだ。不動産管理も業として体を成していなかったし、自社買取や分譲もしていなかった。
代表を継ぐときにJC(青年会議所)に入会することを許してもらい、これが大きな転機となり後の大きな財産となる。明るい豊かな社会の実現という大目標に向かい、20歳から40歳までの志高き青年たちが、自分たちの会費を基に予算を組み、委員会を形成し喧々諤々と議論を交わす。利害関係のない人たちが一つの例会や事業を作り上げていくという試みに於いて、奉仕・修練・友情を育み、一生の仲間づくりができる団体となる。『食を通じて“人”を幸せにするカンパニー』を経営理念に、さいたま市産ヨーロッパ野菜などの仕掛けをつくり地産地消で地域貢献する(株)ノースコーポレーション北康信社長とは同期入会で、今でも一生の仲間として刺激し合っている。
明日へと続く…