埼京ホーム

トップ > 武蔵浦和の不動産・埼京ホーム【スタッフブログ】 > イニシエーション・ブログ

武蔵浦和の不動産・埼京ホーム【スタッフブログ】

イニシエーション・ブログ

2018.1.22更新

はじめに

創業より33年目となる不動産業者、埼京ホームの代表を務める里中宗一郎です。この度、会社のホームページをリニューアルするにあたり、ここで働く者たちのスタッフブログを開設しました。不動産業を通じて“人”を幸せにする企業として、わが社の経営理念を基に、各々の持ち味をいかして仕事に励む姿と、不動産業を通しての人生観を投影できる場所であってほしいと考えています。そこで最初に社員一人ひとりがその人となりを語るにあたり、先ずは代表者が先導を切って自らの半生を語ることとした。リニューアルにあたり力を貸してくださった内野さんにはこの場をお借りして感謝を申し上げます。

1.両親について

私は昭和12年生まれの父憲夫と昭和16年生まれの母薩子の間に3兄弟の末っ子長男として、1975年7月に旧浦和市(さいたま市南区)に誕生した。生まれも育ちもさいたま市南区辻であり、本年(平成30年)43歳を迎える。同世代では、元広島カープの黒田投手、レッドソックス上原浩治、元西武ライオンズ監督で東尾修を父に持つ東尾理子、こちらも引退したがテニスの杉山 愛、明治150年を迎えるにあたり注目度が増してきている明治天皇の玄孫で作家の竹田恒泰さんなど。

両親とも本土最南端の砂風呂で有名な鹿児島県指宿の出身。父はラサール高校を卒業後、養子先であった医者の家を継ぐため医大を目指すように言わるものの、性分に合わなかったのか、浪人の後ついに医大を受けることなしに勘当され、住み込みで4年間働き自ら学費をためて、大学に入学したとのこと。後年その時の4年間を取り戻すために大変な苦労をしたというのが本人の人生の語り部となっている。

父は元々経理マンであったのだが、40歳を過ぎたころ家を購入したのをきっかけに営業の面白さに目覚めたと話しており、46歳のときに、現在私が浦和ロータリークラブでご一緒させていただいている大岩社長(当時)の不動産業者(株)尾張屋で修行。3年間勤め上げ49歳で独立、数年後バブル時代を迎えるわけであるが、大きなばくちをすることなく堅実な経営と地元を大事にする姿勢で続けてきて現在がある。父がお世話になった当時の大岩さんと同じクラブに入会できたのは何かのご縁であろうと思えてならない。

2.幼少期について

頭髪は栗色で若干ウェーブがかかっているが、決して染めたりパーマをかけているわけではない。そして茶目で色白で細身とくれば、女家系ということもあり、銭湯などではよく女の子に間違われていた。集合写真をみると一点だけ白い部分があって、自分を探すことには苦労はない。

子供3人育てるのに必死だったことであろう。両親は共働きで小さい頃はいわゆる「鍵っ子」であった。学校が終わると家に誰もいないという状況から、毎日のように習い事に通っていた。スイミングスクール、習字、塾、ピアノ教室など…。当時は習い事がとても嫌で仕方がなかったのだが、今思い返してみると贅沢な事でもあるものの、自ら進んで志願したわけではなかったということもあり、やはり寂しかった思い出がある。そんな中でも土曜日に通っていたアトリエ(絵画教室)は大好きで、保育園のはす向かいにあることもあり、早くに上がってしまう時間帯から預けられていた。最初は通わされていたものの、もう学校が6時間目までになって通わなくても大丈夫な時間帯になったにも関わらず、わざわざ平日の大人の人たちが通うところに日程をずらして、毎週欠かさず通っていた。そんなことから幼少期から美術はいわゆる通信簿の5を毎回取得。早いうちから油絵に取り組むようになり、「将来は芸術家」という夢も膨らみを見せる小学生時代であった。

やることなすことノロマという一言に尽きるらしく、姉にはよく「おまえは亀だ」と笑われ、母からは周りがどうしているか見てから動き出すと揶揄されていた。また、人から言われたことはとても良く正直に受け止めるので、良いことも悪いこともそのようなものかと考えていた。中学時代のある音楽の授業で「里中君は歌うまいのね」と真面目に褒めたたえられたので、歌手になれるかと聞いたところ、それは里中君の努力次第と言われたことをきっかけに、歌手を目指して勉強することになった。高校時代はエリック・クラプトンのアンプラグドが流行っていたこともあり、もっぱらアコースティックギターで弾き語り三昧の日々を送っていた。

3.20代について

10代から打ち込んだ音楽も行き詰まりを覚え、20歳を超えたころ昼夜問わずアルバイトして貯めたお金をはたいて単身アメリカへ。サンフランシスコの北側にあるバークレーは有名だが、私はそのもっと北側にある田舎町エルサリーロ(だったと記憶している)に住み込み、音楽の勉強に打ち込んだわけである。が、しかし、一時帰国したときの池袋において人生の転機を迎える。

少し前に亡くなった藤圭子の子供で歌手の宇多田ヒカルのデビュー曲(Automatic)が池袋駅前にあるビルの大きなビジョンで流れていたところを目の当たりにして「同じ日本人でこれか…これは自分では無理だ」と音楽の道をスッパリと諦めた。その後、手に職をつけようと元々好きだった食の世界へ飛び込むものの・・・。3年目の修行のある日、いつも頑張っているからと普段は入ることのできない刺し場に立たせてもらったワタクシ。初めてつくった刺し盛りに対して社員の板前さん、「おまえはセンスないなぁ~。こうやってやんだよ」と私が盛った刺身をチョチョイノチョイで見事に盛り付けて見せてくれた。普通ならそこで「私も頑張るぞ」と意気込むのかもしれないが、「自分にはセンスが欠けている。」とその場で食の道を断念した。今思えば3年間自分なりに一所懸命努力してきたことが早々たる決断に至ったのではないかと思うところ。そして、食・住・衣という重要度からして、食の次は「住まい」と選んだのが不動産業界である。

父の教えもあり、働くようになってからはお付き合いする女性とはいつも結婚しようと思っていたほど、結婚観は人一倍早かったと思われる。ところが、付き合うどの女性とも当然ながら結婚まではいかず、現在の妻と不動産業界で知り合い付き合って半年という短い期間で結婚まで出来たこと、これまで20年以上不動産業界に従事できていることとなど考えても、結果的にこの業界がどうやら性分に合っていたということだろうと思う次第。因みに半年で結婚まで至った原因は他にもある。

今の実家から歩いて数分のところに昔の家があった(現在建物は取り壊され、つくし幼稚園の一部になっている)のだが、小学生のころ自宅に看板が掲げられ、木造2階建て3DK違法建築の建売であったため(当時はまだ不動産業者ではなかったため騙されて購入したようである)ただでさえ狭い家にドでかいコピー機が搬入され、玄関前に看板が掲げられ、電話が引かれてきて、よくわからないまま当時の自宅で会社が始まった。そんなことが幼少期の私にとってとてもいやな思い出となり、家業は敬遠していたのであるが…。結果的に同じ業界に身を置くことを選んだのには、はやり最も傍で見ていた小さいころからの記憶が残っていて、自然と不動産業界に惹かれていったとも考えられる。そんな折、父がくも膜下出血で倒れ「危篤」との知らせを受けた。実際、病院に駆け付けてみると呂律も回らず、立ち上がれず、寝たきり状態の父がいた。私の当時の職場は渋谷区大山町にある(株)住建ハウジング。私はここで不動産業の厳しさを学んだのであるが、就職する当初から家業を継ぐことは視野に入れてはいなかった。ところが、この一件から会社が立ち行かなくなるのではという危機感のもと、家業を継ぐ覚悟を決めて現在の埼京ホームに入ることとなった。幼少期からノロマだ亀だと笑われていた私であるが、妻を捕まえるのは早かったし、何より「目がいい」と良く褒められるように、良き妻をゲットできたと自負している。結婚を決めたのは26歳。古巣となる住建ハウジングを退社したのが6月30日、本当は一週間位休みたかったのだが何故かそれも許されず、誕生日の一日前26歳最後の7月1日に埼京ホームに入社した。結婚したのは27歳になって間もない11月である。父親の目の黒いうちに結婚式をあげてあげたかったのだ。そうして、結婚式に出て皆様にお礼の言葉をのべなければ!と思ったかは定かではないが、父はその後、奇跡的な復活を遂げ、以後10年間ともに仕事に従事することができ、現在はまま元気に隠居生活をおくっている。

4.30代前半

30歳の頃、友達とキャッチボールをしていた時に、ふと自分の手のひらを見ると何か小さな水泡のようなものが出来ていた。日を経ることにその水泡がだんだん増えてきて、手のひら足の裏に広がり、ついには水泡が皮膚を破りつぶれるという症状がでてきた。それ以後、まだ皮膚が再生しないうちに、次から次へと水泡が出てくるようになり、破れては出来、破れては出来と繰り返すようになったのである。そのうち胸骨・鎖骨・肩甲骨・肘など主に上半身の骨が痛み出し、原因が分からずしばらくの間苦しむこととなる。母はゴルフが大好きで、それまでは良く連れて行かれてコースを廻っていたのであるが、この時から一緒にゴルフを楽しむこともできなくなってしまったわけである。スーパーのレジなどでおつりを受け取るのも難しいので、一時は手袋をはめて生活する始末。ある時、女優の奈美悦子さんがテレビで同じ症状を訴えて病院で会見しているのを目にした。そのことで病名が分かり、私も同じ病院にお世話になることになり、少しずつ改善してきて今がある。原因が分からず苦しんでいた時に、人生で初めて死について真剣に考えた。

5.30代後半

この病気との出会いから、限りある命、仕事と家庭の往復だけでなく自分以外のだれかのために行動することを強く意識。縁あってJC(公益社団法人埼玉中央青年会議所)との出会いを得て、自ら飛び込むように35歳の時に入会した。2017年9月末、日本全国から約16,000人がさいたま市を中心としたこの地域に集結し全国大会という日本最大規模のコンベンションが開催されたわけであるが、この大会の誘致から開催決定までの“つながり”が様々な学びと気づきを得ることができたと考えている。この大会本番は残念ながら既に卒業(青年会議所は20歳から40歳までという明確な年齢制限がある)していたが、どこにいっても仲間がいて自らの励みにもなったし、かけがえのない経験を沢山させてもらった。現在は仕事に打ち込む傍ら、JCでの出会いがきっかけとなり、明治天皇が明治元年に大宮の武蔵一宮氷川神社に行幸されてから150年という節目を迎えるにあたり、様々な記念事業を計画する役を担うことになり、2016年10月市民会館おおみやで「氷川神社の真実」という題目で講演会を開催し、これまでの経験を活かして様々な方々を巻き込んで、大ホールを埋め尽くす1,000名の動員をなし得た。また2017年10月にはジャック大宮のプラネタリウムを利用してドクタースランプアラレちゃんの声で有名な小山茉美さんに語り部をしてもらったシンポジウムを開催。ご出席いただきました皆様真にありがとうございました。これまた良い経験を得る事ができました。

6.趣味について

挫折はしたものの趣味としては料理が一番。今でも夜の予定が無い日には妻に料理を振る舞うのが私の楽しみとなっている。特に好きなのは煮物。具材を鍋に入れて火にかけているときにグツグツしている鍋の中を「ジー・・・」と眺めているときが一番好きであり、少々根暗のように聞こえるかもしれないが、頭がリセットされ、考えをアウトプットし易くいいアイデアが生まれる。また「美味しくなぁれ~。美味しくなぁれ~。」と唱えていると食材がそれに応えるように本当に美味しくなるので、これまた楽しいひと時である。

7.仕事(観)

家も同じようなものだという考えがあり、固くて大きくて味わうことはできないが、思いを込めて家をつくればそれらは分かる人には感じるものだと信じている。また、先代から受け継いだ姿勢に『農耕型経営』というものがあるが、これは何もないときでも普段の業務の中で種をまき草取りを行うような営業姿勢で、地道にコツコツと仕事をするように心がけている。社員には仕事を通じて自らの人間力を高め明るい豊かなまちづくりに貢献できるよう務めてほしいと伝えている。これは青年会議所で培った経験が大きく、経営理念の文言を明確化したり、何故仕事をするのかとか、この会社は何のために存在しているのかとか、社員の将来のこと、物事を考える際の背景・目的・展望という視点など、これまでの経験を活かして仕事に励んでいます。不動産業は地場に限ると考え、近年は基本的には事務所のある武蔵浦和から半径2kmに商圏を絞って営業している。2キロというと大変狭いものの、他のエリアでは負けても武蔵浦和エリアでは絶対に負けちゃだめだと従業員一同ともに頑張っております。

8.最後に

先代からこの会社を引継げたことを深く感謝しております。住まいを通じて“人”を幸せにする会社として農耕型経営の姿勢を貫き、地域に愛され、必要とされる経営をしながら、社員と共に新しいことにチャレンジし続け、100年以上続く老舗企業を目指し突き進んでいきます。

ライター:里中 宗一郎

電話受付 9:00〜18:00(火曜日、水曜日定休)